ハコブロ

箱には無秩序に日常が投げ込まれているよブログ

絶対にばれてはいけない職業2

 優はその時ちょうどお風呂からあがったところでした。
 番台に座っているお姉さんや牛乳をおごってくれたおじいさん、扇風機のそばで涼んでいるおじさんたちに挨拶をしてから銭湯を退出します。臨海湯という町内唯一のこの銭湯は、昔はその名の通りに海を臨む位置に建てられていましたが、今はもう埋め立てが繰り返されたために町の中央より北側に位置していました。優は二日に一度この臨海湯でお風呂に入るのが習慣で、日曜日と火曜日と木曜日に入りに来ます。木曜日の次は本来ならば土曜日なのですが、学校との兼ね合いにより、土曜日ではなく日曜日に入りにくるようにしていました。
 男湯と逆さに書かれたのれんをくぐると、次第に冷たくなってきている風が優の体をなでて行きます。お風呂あがりの優にはちょうどいいくらいの涼しさでしたが、風邪をひいてはいけないので早足で家へ帰ることにしました。
 そうして一歩を踏み出したちょうどその場所で優は何かやわらかいものを踏んづけ、その感触にびっくりして思い切り尻餅をつきました。タオルと石鹸を入れていた手提げ袋が手から離れ、少し離れた地面に落ちます。
「いったー……」
 折角お風呂に入ったのに、が一番最初に思いついたことで、その次はズボンが汚れちゃった、でした。そのように他にも二つ三つ考えながら、優はやっと自分が踏んづけたものが何だったのかを確認しようとして、自分の足の先のほうへと視線を向けました。
 そこにいたのは白い蛇でした。
 最初、優はそれのことを白いプラスチックの棒か何かかと思いましたが、それが動いていること、よく見たら鱗のようになっていること、そして、目のような二つの穴があり、口のような場所から舌のようなものが出ていることを確認して、ようやくそれが図鑑などで見た蛇と呼ばれるものだと認識しました。
 なにぶん優は蛇を見るのが初めてでしたから、実はこの時ちょっとだけ感動していました。蛇ってこんなところにもいるんだ、とか、本当にうねうねしてる、とか、触ったら硬いのかなあ、とかそんなことを考えてから、自分がまず真っ先にやらなければいけないことを思い出しました。
「ごめんね」
 それは、踏んでしまったことに対する心からの謝罪でした。自分の不注意に対する謝罪はしっかりとしなきゃいけないと教えられてきましたし、優もまた謝らなきゃだめだと考えていました。
 一方の蛇は踏まれてからずっと優のことをずっと見ているだけでした。優はそれに対して微笑んでから、「じゃあね」と言って立ち上がります。汚れてしまったおしりをはたいて砂などを落とし、飛んでいってしまった手提げを拾うために蛇から目を離しました。
 もちろん優は蛇に人の言葉が通じるなんてことは信じていませんでしたから、四歩進んで手提げを拾うために腰をかがめた時に、
「気にするな」
 と後ろから声をかけられても、優はそれが蛇の声だとは思いもしませんでした。
 優は手提げを拾ってから後ろを振り向きます。しかしそこには、相変わらず白い蛇が一匹いるだけでした。なんだったんだろうと不思議に思ってこくびを傾げると、
「きみはいい子だな」
 と言われました。真正面の蛇に。割と渋い声で。
「…………」
「驚いたよ。一週間は覚悟してたが、まさか二日で出会えるなんて」
 優の二つのつぶらな瞳が、蛇の二つのつぶらな瞳とつながります。それだけで通じ合えれば世界は平和なのですが、残念なことに優には何も分かりません。理解できず、動けなくなるばかりです。
「さて、きみ」
 蛇は優と同じように頭を少し傾げて、
「働いてみる気は無いか?」
 と訊ねました。そしてそこで、優もちょうど限界に達しました。
「ご」
「ご?」
「ごめんなさい!」
 もう一度謝って、優は一目散に走り出しました。優は一般的に言って運動ができる子ではありませんでしたし、徒競走も遅いほうではありましたが、この時ばかりはそんなことも言ってられません。一分一秒でも早く家に帰ること、それだけが優の今達成するべき目標でした。
 しかし蛇もそうそう逃がしてあげるわけには行きませんでした。見つかるかかどうか不明だった人物郡の一人が目の前にいたのです。黙って見過ごせるはずがありません。蛇は一瞬だけあっけに取られたものの、すぐに気を取り直して優を追いかけて這いだしました。
「きみ、落ち着きなさい。確認もしないで交差点を飛び出したら危ないだろう」
「ごめんなさい! ペットだめで、それに貧乏だから! ごめにゃひゃう!」
 走りながらしゃべっていたからか、優は思い切り自分の舌をかんでしまいました。あまりの痛さに口を押さえてその場にうずくまり、うーと言いながら痛みを懸命に我慢します。そんな優のすぐそばに蛇もやってきました。心配そうになのかどうかは顔からは判断できませんでしたが、下から優を見守っていました。
 しばらくそんなままの時間が過ぎ、何羽かのカラスが上空をにぎやかに通り過ぎていった後に「大丈夫か」と蛇が聞きました。
「……うん、だいじょうぶ」
「そうか。ついでに落ち着いてくれてるとなおいいんだが」
「うん……。そっちも、もう平気」
「そうか、それは本当によかった」
 蛇が嬉しそうに言います。優もつられてつい微笑みます。
「さっききみはペットと言っていたが、それは勘違いだ」笑いかけられた蛇は、外見上は分かりませんが言葉の弾みかたなどから察するに上機嫌で話を続け「わたしがきみに望むのはまほ」
 望むのはまほ、と言ったところで蛇は急に言葉を止めました。口を閉じ、まなざしは固定され、その体もまた動くことを止めています。優はどうしてそこで止められたのか理由も分からず、マホってなんだろうと自分が今まで溜めてきた知識の棚をあさり始めていましたが、残念なことにまったく見つかりません。
 と、そんな優と蛇の脇を一台の自転車がダラダラ運転で通り過ぎて行きました。優がその後ろ姿を何気なく目で追い、角を曲がり見えなくなってしまってから少しして、
「どこか落ち着ける場所で話しをしよう」
 と蛇が優に言いました。
「落ち着ける場所って?」
「わたしときみ、二人だけで話ができる場所のことだ」
 まだ十年しか生きていない優には選択肢が少なすぎる言葉でした。優の中にいくつかの候補が浮かび、浮かんでは消えが繰り返されます。優は懸命に考え、考えに考えて、
「家でいい?」
 と言いました。