ハコブロ

箱には無秩序に日常が投げ込まれているよブログ

絶対にばれてはいけない職業1

 それは夜のことでした。夜といっても、まだ20時を少し過ぎた程度の時間です。小さな一軒家や集合住宅の窓からは暖かい光があふれ、家族団らんの楽しげな声が聞こえてきそうな夜でした。
 そんな夜の住宅街を、一匹の猫が歩いていました。ご自慢の、先っぽがちょっと曲がった尻尾を体に対して垂直に立てて、振り子のように左右に揺らしています。何もさえぎるものがない道路の真ん中を選んで、猫は悠々と歩きます。プラスチック柵がついた門扉の内側からゴールデンレトリバー種が吠えかけますが、猫はどこ吹く風と相手にしません。
 そんな猫の背中に、人の形をしたものが乗っていました。街頭に時々照らされるその姿は、月やら星やらハートやら羽やらといったデザインが黄色だったり紫だったり赤だったりピンクだったりする色でデコレーションされたステッキを持ち、白だったりピンクだったりするふりふりとかひらひらといった擬音がよく似合いそうな服を着ていました。
「ええとね、だから……ちょっと止まってほしいんだけどにゃひゃう!」
 その時、猫の背中の人の形をしたものが声を出して、そしてすぐに悲鳴に変えました。悲鳴を上げたのは猫が急に跳ねたからで、少し震えていたちょっと高いキーの声を今はしまって、振り落とされまいと必死に猫の背中にしがみついています。
「……ええと、ね。だからさ、まずは落ち着いてお話をしようよ、ね?」
 もう一度、猫の背中の人の形をしたものが話しかけました。しかしもちろん猫が人語を理解することは無いので、その猫、全長が3メートルはあるんじゃないかと思われる白・黒・茶の三毛猫は、なんのお構いなく住宅街を闊歩していました。
「そろそろ諦めろ。運良く人に見つからないのにも限度があるぞ」
 人の形をしたものの右手、猫の右わきあたりに深くうずもれているステッキから声が生まれました。外見にそぐわない男性の声で、先ほどの声と比べなくてもずっと渋く、落ち着いた声をしていました。
「で、でもー。やっぱりかわいそうだよ」
 人の形をしたものがステッキに話しかけます。
「危険はないと何度も言っているだろう」
「そうは言うけどさー」
「この状態で人にじゃれついてみろ、無事ではすまないぞ」
「それも分かるんだけど……」
「それとも」
 ステッキは一度わざとらしく言葉を切って、「このまま人に会ってもいいのか?」と言いました。
 その言葉が発されるやいなや、猫の背中に一生懸命にしがみついていた顔が見る見るうちに、心底いやそうに歪んでいきました。そんなに長くは無い時間が経って、結局、ステッキの説得が一番最初に成功しました。
「わかったよぅ」と呟いて、あまり乗り気ではないように、しかし少しだけ急いで人の形をしたものは体を起こし、ステッキを高々と振り上げました。風にあおられて体が少しずつ後ろに傾いていきます。
 しばらくするとステッキの中心部分(直径50ミリくらいの宝石のようなもの)が光りだしました。それを確認してからステッキをくるっと上下逆さに持ち替えて、
「きょーせーそーかーん!」
 と近隣の住民に迷惑がかからないようできるだけ小さな声で叫び、ステッキの先端を猫の背中に当てました。ステッキの中心部分が一際大きく発光し、その光が猫にまで伸びていき、その大きな体を飲み込んでいきます。
 近くにあった家々から、突然明るくなって何事かと住民が何人か出てきましたが、光が収まったそこにはもう何もありませんでした。
 その場所のすぐ近くにある中で一番空に近いマンションの屋上に、さっきまで猫の上にいた人の形をしたものが、さっきまでと変わらない姿で立っていました。それは小さな、10歳くらいの子どもでした。危なかったなぁと胸の上に手を置いて、心臓が奏でる早鐘を聞いています。
「……よし、送還無事に終了だ。よくやったな」
 発光を止めたステッキが言いました。子どもはそれを聞いて小さく首を横に振ります。
「ううん。……それより」
「それより?」
「今日の仕事だとお給料はいくら?」
 とステッキに向かって真正面から聞きました。
「そうだなあ」ステッキはしばし考え「今日くらいのだと……こっちの価値で200円だな」
 と答えました。
「そっかぁ」と子どもは小さくうなだれました。「それだけしかもらえないんだ」
「動物は簡単だからな」
 しゅんとうなだれる子どもに、「なに、まだまだこれからさ」とステッキが励まします。子どもはしばらくしてから、「そうだね」と言って、小さく微笑みました。そして、やはり小さくあくびをしました。
「さあ、もう帰ろう。子どもは寝る時間だ」
 ステッキが優しく言います。もしかしたら笑っていたのかもしれませんが、ステッキなのでそれは分かりませんでした。子どもは文句を言わずにうなずいてそっとステッキに横向きに腰掛けます。そうして子どもが腰掛けると同時に、ステッキは星空に惹かれたかのように空へと浮かび上がり、自転車よりも少しだけ速いスピードで月があるほうに向かって飛び始めました。鳥や虫、車の鳴く音が聞こえる中、ステッキは安全運転で空を飛び、そして小さな木造二階建てアパートの一室のベランダに音もな停まりました。
 子どもは音を立てないように気をつけて降り立ち、右手の人差し指だけを立ててそれを口に当てました。そのポーズのまま静かにベランダの窓を開けて中の様子を伺い、家の中にいる人物が寝ていることをしっかりと確認しました。靴を脱いでからそのまま家の中に入り込み、窓を静かに閉めてしっかりと鍵をします。足音を立てないようにゆっくりと歩いて、部屋の中に二つある引き戸のうち、布団の足側の方にある引き戸へと向かいました。引き戸を開けると、そこは押入れでした。ちょうど、布団が入っていたと思われるスペースがぽっかりと開いています。そのスペースにもぐりこみ、中から音を立てないよう慎重に引き戸を閉めます。真っ暗闇の中、今までずっとつけていた右手の人差し指を唇から離し、安心したように息を吐きました。
「安心するのは早いぞ」
 ステッキが、子どもの意を汲んでとても小さい声で釘を刺しました。子どもはやっぱり小さくうなずいて、暗闇の中でステッキを自分の前にかざし、
「へんしんかいじょ」
 とできるだけ小さな声でささやきました。ささやいた途端、真っ暗闇だった押入れが一瞬にして眩しいほどの光で埋め尽くされました。光の中心にいたのは子どもとステッキで、ステッキはその形を飴細工のように変形させていき、そして子どもが着ていた服もまた細かい粒子のようなものになって霧散していきました。
 光が収まったとき、そこには普通のパジャマを着た子どもと、その子どもの腕の中に包まれた、一匹の蛇がいました。
 目を閉じていた子どもはゆっくりと目を開き、慎重に押入れの引き戸を開けました。引き戸の先、部屋の中央に二組敷かれている布団の玄関側、そちらで寝ているはずの母をそっと伺います。母は今までの出来事に気づいた様子もなく、静かに肩を上下させていました。今度こそ本当に安心して、子どもは蛇を視線を合わせて微笑みあいました。
 そのまま押入れを這い出て、寝ている母の左側にある引き戸をやはり静かに開けます。そこには小さなキッチンとトイレ、そして玄関があるだけです。こちらも服と同じように元に戻った靴を玄関に揃えて置き、流し台で少しだけ水を出して手をしっかりと洗います。蛇口を閉めて水が漏れていないことを確認してからタオルで手を拭き、再び引き戸を開けて、寝ている母の足のほうから回って自分の布団に入りました。抱えていた蛇も自分と同じ布団に入れます。歯磨きはすでに済ませているので、後はもう眠るだけでした。やわらかい布団と太陽の匂いが体をくまなく包みこみます。待つ時間も無く、すぐに睡魔はやってきました。
「……それじゃ、おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ」
 おなかの近くでとぐろを巻いていた蛇とおやすみなさいの儀式をして、子ども――大井町優は、すぐに寝息を立てたのでした。
 
 第一話『絶対にばれてはいけない職業』
 

 寝息を立ててすぐに優は目を覚ましました。
「……おしっこ」
 トイレに行くのを忘れていたことを思い出したからです。眠い目をこすりながら布団をめくり、母と蛇を起こさないように気をつけながら引き戸を一枚開け、右手側にある小さなドアに向かいました。スイッチを入れて電気を点けてからドアを開けると、特に飾り付けの無い、なんの変哲も無い水洗トイレが蓋を閉めた状態でありました。
 優はトイレの中に入りドアを閉め、蓋を上げ、そして、便座も一緒に上げました。
「…………、ふう」
 振って水気を切ってからズボンを上げゆっくりと水を流します。トイレを出て電気を切り、引き戸を開けて、再び布団の中にもぐりこみました。今度はもう目を覚ますことはなく、優は朝まで気持ちよさそうに眠っていました。
 
 魔法少女?ユウ 第一話『絶対にばれてはいけない職業』